本文へスキップ

HEADLINE御祭神のお話

由緒と御祭神

神社の創建の年月の正確なものはないが道臣龠の子孫が同所に住み祖先を祭ったのが始まりで神社の歴史は古く、藤原時平の緇さんしか「三代実録」(清和天皇の平安二年から光孝天皇の仁和三年までの歴史書)によると清和天皇の貞観九年、志紀郡林村氏神を官社に預り、同十五年正六位上天押日神従五位下に叙せられたと記し、延喜式神名帖にも伴林氏神社が出ている、由緒のある神社である。

御祭神とは

当神社の御祭神については古平記、日本書紀などにつぎのように書かれている。

 高皇産霊神は神代に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)について神産巣目神(かみむすびのかみ)とともに現われた独身の造化の神様で天照大御神とともに天つ神として尊ばれている。天押目は高皇産霊神から数えて五代目の子孫で神様の住われた高天原の武神、皇孫天津彦彦火瑣瑣杵尊(すめみまあまつひこひこぼのににぎのみこと)が高天原から高千穂に降るとき天津久米命(あまつくめのみこと)とともに弓矢、剣を持ち先導した神様である。道臣命は天押目命から三代目で始め日臣命(ひのおみのみこと)といった。神日本磐余天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと、後の神武天皇)が高千穂宮から大和に向う途中、大久米命(おおくめのみこと)とともに天皇御親任厚く軍を指揮統師した。大阪難波から真直ぐ大和に入るうとしたが登美(大和の地名)の那賀須泥毘古(なかすねびこ)らにはばまれ八咫烏(やたがらす)を道案内として和歌山の山の中を遠回わnへ難路を切り開いて進撃した。途中兄宇齟斯(えうかし)というものが天皇をだまして殺そうとして御殿を造り、部屋の中に足で踏むと打たれて圧死する仕掛けを造り、天皇を御殿の中に導き入江ようとした。こ江を見ぬいた囗臣命らは兄宇迦斯を刀とほこでおどして御殿の中に追い入れ、自分の造った仕掛けにはさまれて圧死させた。また忍坂(大和の地名)の土着民八十建(やそたける)に酒をおくり油断させて斬り込み滅してしまうなど数々の勲功をたで神武天皇から道臣命の名前を賜った。
道臣命の子孫は代々朝廷につかえ軍事の最高責任者という重要な地位を占めていた。道臣命から七代目の武持が偕行天皇から大伴宿禰(おおとものすくね)の覬を賜った。金村は平群氏を滅して朝廷
に威をふるった。しかし欽明天皇のときに大連物部氏に南鮮政策の失敗を追及され失脚した。その後長徳が蘇我氏を滅ぼして力をもり返し、孝徳天皇のとき右大臣となり、壬申の乱には長徳の弟馬来に味方して朝政にたずさわり、御行、安麿、旅人らが大納言まで昇進した。しかしその後藤原氏らの勢力が次第に強くなるとともに大伴氏は衰退してゆき、大納言伴善男が天平の変で伊豆に流されすっかりおとろえてしまった。なお淳和天皇の諱(いみな)が大伴であったため弘仁十年大伴宿禰を伴宿禰と名前を改めた。

大伴氏系譜



バナースペース

伴林氏神社

〒583-0007
大阪府藤井寺市林3丁目6−30

TEL 072-954-5126
FAX 072-955-8582